2010年4月8日木曜日

花村周寛の市大病院でのインスタレーション

本日夜船場アートカフェの打合せ。今年度の活動についてみなで議論。船場での展開をどう進めていくかでいろいろなアイデアが出た。
その後、花村周寛さんの市大病院でのアートインスタレーションの報告を見る。医学部の山口悦子先生と一緒に展開しているプロジェクト。これもアートカフェの活動。とにかく、とても素敵なインスタレーションだった。ちょっと感動モノ。
病院という場所は医師、看護士、患者など、病院にいる人が自身の置かれている環境を忘れることが難しい場所だと思う。患者をみる人、みられる人、治療する人、される人という固定化された関係がそこにはあるし、病院はやはり病気を直したり、療養することに特化している場所だから、それ以外のことをするなんて、ふつうは思いもつかないはずだ。みな自分の置かれた環境を冷酷に自覚しているのが日常という場所なのだ。
しかし、そこにアートをもちこむ。とびっきり上質のアートを持ち込むだけで、人々の顔が変わる。そこにいるのは医師でも、看護士でも、患者でもなく、アートを鑑賞するという体験を共有する人だけだ。そして、人々の顔は笑顔。仮面を脱いで、素直に素敵なものに感動する当たり前の人間に戻る瞬間だ。

われわれが取り組んでいるまちのコモンズもまさに同じ発想。忙しく働くだけのオフィス街という価値しかない場所に、アートを持ち込むことで、企業戦士も、ワーカーもひとりの人間に戻ってまちを見ることができるようになる。豊かな感性をそなえた一人の人間に戻れれば、きっと都市の空間を豊かに使いこなす発想も湧いてくるし、そのためのデザインを都心が欲するようになれば、人はさらに幸せになれる。そんな試みを目指している。まったく同じだ。
コギレイな空間だけを意味なく量産したって、決して都市は豊かにはならない。人々の都市を見る心を揺れ動かす仕掛けが同時に必要なのだ。

とはいえ、花村氏によれば、病院でアートを展開することは解決すべき課題も多いそうだ。特に予算の確保。まちのコモンズも毎年その活動費の確保に頭を悩ませているが、病院でのインスタレーションも同様。ただ、病院であれば、医薬品メーカーとか医療機器メーカーなど医療に関わる企業も多い。こうした企業のスポンサード、CSR活動で病院でのアート活動は展開できないのだろうか?そんなことを思った。確かに、医療の場、治療の場はそれ以外のことは不要と切り捨てることも可能だろう。しかし、医療に関わる人、治療を受ける人も、それ以前に人間なのである。素敵な体験には素直に感動する一人の人間なのだ。病院という場所がもっと豊かな環境概念を獲得するには、まず人間を受け入れる場所なのかどうかということを問い直すべきではないだろうか?その活動を支援する企業の理念や姿勢は大いに評価されると思う。
タフな場所で過ごしている人々だからこそ、活動の意義も深く理解してくれるはずである。
花村周寛のようなアーティストがもっと活躍できる場所を都市はつくるべきなのだ。
というような思いをもった時間だった。
ホントは仕事をしないといけないのだが、ちょっとこのことは書いておきたかったので。

花村氏のブログにインスタレーションの写真があるので、興味あるひとは是非。

病院で思い出したことがひとつ。
最近医療モノのテレビドラマが流行しているようだが、昔から病院を舞台にしたドラマっていうのは「屋上」をよくロケ現場にしているように思う。これって定番だよな〜って思っていたのだが、何故そうなのかは深く考えたことはなかった。
それが花村氏のインスタレーションをみて良くわかった。病院の建物の中には、医師や患者といった登場人物に医師であること、患者であることを忘れて一人の人間に戻す場所がないのだ。どうしても院内で、かつ白衣やパジャマといったコードが提示されると、それは一人の人間ではなく、医者であり、患者としてしかモノを見れないのだろう。多分医療の現場でもそうなのだと思う。生死と隣り合わせのタフでシビアな場所がそこにはある。
それで、人物の心理描写を投影するようなシーンでは、一切の周辺を切り取って空で囲い込み、裸の人間がそこにいるという状況をつくりだすために、屋上を使うのだろうというようなことを思った。

そのことを考えていると、またふと別のことが頭をよぎった。20年ほど前の記憶だ。私が学生時代に研究室の先輩がゼミで、「夕焼けの研究がしたい」といったことを思い出した。景観を研究する研究室だったから、眺め自体を扱うことは問題がない。しかし、夕焼けを扱うというのはちょっと聞いたことがなかった。ゼミのみんながきょとんとしていると、先輩は自分でもうまく説明できないけれどという前置きをしながら、おもむろにその理由を説明しはじめた。先輩曰く、夕焼けを見ているという行為は夕日を眺望、鑑賞の対象としてしげしげと眺めているというわけでもないが、まちを歩いていて、キレイな夕陽に出会うと思わず立ち止まり、全てを忘れて何となく感動してしまうチカラをもつと言っていた。その感動をなんとか解き明かしたいと彼はいった。
その時のゼミの議論でも、その体験の告白には皆おおいに賛同したのだが、果たして研究としてどう成立させるのかということについては結局いい答えを見出せなかった。残念ながらこのアイデアは論文にはならなかった。が、この問題意識は前述の病院でのインスタレーションと同じことのように思えてきたのだ。
ところで、その先輩はいま国土交通省で役人をしているはずだ。霞ヶ関というのもアートが必要な場所のような気がするが、先輩は夕焼けのことを覚えていてくれるだろうか・・・

だいぶ話がそれたが、花村周寛。恐るべしです。

0 件のコメント:

コメントを投稿