2010年5月27日木曜日

ゼミ!

本日ゼミの感想。2周目に入ったので、甘いコトバはもう終わりにしよう。

各人の発表はともかく、議論が白熱しないことがとても気になる。
黙っているというのはどういうことなのだろうか。分からないこと、面白いこと、つまらないこと、不思議なこと、なんでもいい。感情は湧かないということなのか?
稚拙な質問をしてバカにされるのが怖いのか?言い合いになるのがおっくうなのか?それとも自分には関係のないこととして興味がないのか?
それが一番心配。いまの学生諸君が将来社会人になったとき、問われるのは、「あなたならどうするの?」「あなたはどう考えるの?」ということ。組織、個人のするべきことを眼の前にして、そこで自分がいい仕事をできること。それでお給料をもらう。

分かりやすく言おう。例えば、諸君がメーカーの商品企画の仕事に就いたとして、売れる商品を考えるというチームに所属するとしよう。その場合、企画会議で誰もコメントをしないような会社はどうだろう。そんな会社にヒット商品はつくれるはずはないし、会社はすぐつぶれるはずだ。商品の売れ行きが自分の会社の命運を左右するし、給料にも影響する。会社がつぶれれば、みんな路頭に迷う。

だから、売れるはずのないつまらん商品企画が出てくれば、だれかがそんなもん売れん!という。真剣にいう。そんなモノが出たら、会社にとって、自分にとって大変だからだ。確かに企画はボツになるかもしれない。企画をだした人は傷つくかもしれない。でも、次の機会には提案者もその教訓を活かした企画を出そうとするはずだ。そうやって磨かれていい商品の企画はできあがるのではないか?良い企画を出せと言われたのに、それが最後まで出されなければ、仕事が失敗に終わる。失敗に終わらないためにも、吟味に吟味を重ねる必要がある。
キミらは売れる商品をつくるアドバイスを出来ているか?それが本当に売れると思うのか?真剣にコメントしているか?みんなが真剣に意見を出せば、絶対に企画の質は上がると思わないか?

そういう緊張感の場所があれば、企画を出す人も真剣になる。よい商品をつくるために手がかりも要るだろう。マーケティング調査もするだろう。競合商品の調査もするだろう。モニター調査もするだろう。あらゆる手段をつくして、ヒット商品の企画のヒントを得ようとするだろう。そうなれば、意見を言う人もいい加減なことは言えなくなる。そして企画の質はアップスパイラルの軌道を描き始める。

よほどの天才でも、一発のアイデアでヒット商品なんて考えつくはずがない。ヒット商品の陰には無数のボツ企画がある。会議での失敗、ダメ出し、バトルは大いなる成功につながる一歩なのだ。そのプロセスを経ずして、いいものなんて出てくるはずがない。だからこそ、ゼミでの議論はとても重要なのだ。その場を丸くおさめることは、将来何も生み出さないどころか悪影響を及ぼす可能性がある。

仲間のことを思うなら、自分たちのレベルを上げようと思うなら、都市を良いものにしたいという思いがあるなら、ツマラナイものにはつまらんと言おう。アカンものはアカンと言おう。で、面白いものには面白い!と言おう。でないと、いつまでたっても次の展開は見えてこないよ。社会で通用しないよ。

で、本日のtwitterから引用。

<某大、某先生>
まだ、ゼミは主婦の井戸端会議レベル。もっと他人に嫌われても良いから(嫌われる様に)グサッと、真実に切り込め(君らの会話から新しい何かが生まれる予感がしないよ)。意地悪ばあさんには到底なれそうもない。

<某大、某先生>
ゼミは喧嘩だぜ、誰かがタオルを投げ入れるまで、徹底的に闘えよ!

<嘉名>
そうです!ウチもゼミがぬるい!どうしてツマンナイものに直言が出ないのか。それは偽りの優しさ。無関心。最悪。2時間もじーっと座ってて退屈じゃないのかな。もっとかき回さないといかん。でも、乱入するとし〜んとするしなぁ。RT

<某大、某先生>
最近懐古趣味じじいになってしまった感がつよいけど・・・、30数年前に卒論生でゼミ発表していた時は、とにかく、「一本」とれなくても「効果」か「有効」はとれるように、前の晩から秘策を練り続けていたよ。RT

2010年5月22日土曜日

都市デザイン演習



5月19日。都市デザイン演習の中間ジュリー。課題地の1/500模型の前で各チームが提案を披露。
やはりアーバンデザインには最低でも1/500の模型が欲しい。いろいろ試行錯誤をしている。やはりどうも、ある建築や公園、護岸などの構造物をデザインするというように学生たちは考えているようだ。この発想だと、竣工時が完成で、その後は劣化するしかない。はじまりのデザインとしての構造物の提案はあってもよいが、それはあくまで、OSOTOという場をつくるための手段にすぎない。そして、その場の誕生によって、まちはその構造を組み替え始める。そんな一連の現象を都市デザインとして描いて欲しい。

2010年5月14日金曜日

ハダカの王様

写真の整理をしていたら、でてきた某駅での一枚。
たしかに建物敷地としてはウラなのだろうが、多くの人々が利用している駅のホームに面していることは気にしないのか。
某政令市に降り立つと一番最初に眼に入る風景と思うと、損していると思うのだが。
もはやアートの領域。
ハダカの王様という寓話を思い出した。確信犯ならまだいいが、人目についていることに気づいていない?
とはいえ、批判という目的があるでもなく、単に目がクギづけになったのでパチリとしたもの。
いろいろ考えさせられる一枚でした。

演習の関所


5月19日の写真。都市デザイン演習の中間ジュリーを来週に控え、エスキス。全般的に現地スタディが甘いかもしれない。水辺をどうするかという課題は学生にはなじみが薄いので戸惑いもあるのだろう。来週に関所が待っている。奮闘を期待。

2010年5月12日水曜日

箕面de川床


箕面の川床に行ってきました。大阪府の方にご案内いただき、箕面観光ホテルの石川会長、橋爪紳也先生らと現地見学後、川床で会食。
公園、河川、文化財関連の規制のなかで川床社会実験を展開していることもあって、制約も多い。社会実験終了後の原状回復(つまり川床は撤去)、上下水道、厨房設備、電源など様々なインフラが確保することが難しい点、初の試みであって集客や収益性の見込みが立たない点など。経営、オペレーション面でもいろいろと課題がある様子だが、第一歩としては成功したのではないかと多くの人は考えてくれているようだ。
いろいろな制約のなかでも、関係者の尽力によってなんとか社会実験を成功させてくれた。
GWには大人気だったようで、アンケート結果の速報値も高い評価だ。
川床からの景色はいいし、遊歩道と全然違うのは水の音。ロケーションの音響効果との関係があるのだろうが、水の音が大きく聞こえてくる。気分が良い。
川床のグレードをもっと上げられないか?開店していない時にビニールシートで覆うのはどうか?など、様々な課題があるのも事実。だが、最初からハードルを高くすると、民間事業者の参入は難しくなる。徐々に解決していけばいい。まずは定着して、箕面の風物詩になることが大事。
定着していけば、インフラの整備やデザインの議論にもつながるし、風景を味わう場も出来れば、公園のデザインの手がかりにもなる。歩行者動線と川床との関係は少し考えたデザインや植栽などの工夫も重要だと思う。
今後箕面公園では夜間ライトアップや修景事業が予定されている。こうした取り組みと連動させて、さらにレベルをあげてほしい。
なぜ川床の社会実験が大事なのかということを、風景の観点から、公共空間のデザインという観点から少し説明しておきたい。
川床の意味は、なにも川床で食事をすること、観光名所をつくることにとどまらないと思っている。遊歩道を歩いている沢山の人たちの目に映る風景の変化にも一役買ってくれるはず。親水象徴という考え方。川床で佇む人がいるだけで、風景に人間の居場所が埋め込まれる。そのことで、水辺に親近感が湧いてくる。これはOSOTOのデザインでは特に重要なこと。そうなると、公園、水辺という場所が人々にとって違う意味を持ってくる。これが本当に重要なことだと思っている。だから、水辺の社会実験は重要なのだ。




2010年5月10日月曜日

研究室で誰かの論文、本を穴があくほど読んだことありますか?

学生が論文の構想を考えるスタートシーズン。毎年同じことを言うなあ、と思いながら、自分が学生の時のことを考えてみる。いまの状況は、自分の若かりしころとさして変わらない。
学生の質だとか、学力うんぬんといった類の話は全く的外れ。ホントに自分の学生時代と変わらない。
自分の経験から特に強調しておきたいのは、私は自分のチカラで論文を書いたのではなく、研究室に論文を書かせてもらったと本気で思っている。だから、研究室は大事なのだ。
なぜ、学生は研究室に所属するのかということを根源的に辿ると、それには理由があるはずだ。指導教員と学生との1対1で成立するのが研究であれば、研究室など不要といってもいい。大学の教育システムでは授業がほぼイコール教育カリキュラムとなる。しかし、現実には授業だけでは研究・教育は成り立たない。授業で知識は入るかもしれないが、知恵、作法といったものまで仕入れることは難しい。
最も分かり易い例でいえば、レジュメの書き方、参考文献、図表の作成方法、カメラの撮影の仕方、データ管理の方法、パソコンの使い方といった基本的なことはすべて授業ではない研究室での滞在時間で身につけた。
同じ場所をいろんな人が一緒に歩いたのに、写真がウマい人、良くわからない写真を撮る人、、びっくりするほど写真が下手な人、ブレまくりの写真を撮る人、いろんな人がいる。それを知るだけで、尋ねるだけ、観察するだけで、自分の幅が広がっていく。そんな刺激が研究室にはあった。私は景観の研究室にいたので、写真のウマい先輩は沢山いた。当時博士課程にいた、Nさんの写真はすごかった(が、被写体はくだらないものばかり)。構図を研究しているAさんは、違うものを撮っていても、同じように評価できる材料として写真を評価するにはどういう共通性を持たせばよいかを追求して写真を撮っていた。写真を撮るというのは、様々な目的がある。その目的に応じてやり方を考えないといけないということに気づくことができた。自分がいまそれをマスターしているとは言いがたいのだが、安易にパシャパシャ撮ったってろくでもないものが殆どだということには気づいているつもりだ。
研究の最初の段階では、真理の追求、個人の根源的問題意識が問われる。しかし、そのことを素直に紙にまとめると、博士論文でも解き明かせないような大研究になるし、既往の研究の足跡から辿ることはもはや困難な宙に浮いたポエムのような言葉が並んでしまう。その多くはリアリティのない空想にすぎない(まれに例外もあるのだが、ここではそれは控えよう)。
では、すでにある論文の蓄積のなかから、自分の興味に近いものを選び出し、その延長上で研究テーマを設定してみると、どうだろうか?たしかにそれなりに研究らしい形はできるだろうが、それが知的探求の成果といえるかといえば疑問符がつく。それは問題集を解いているのとさして変わらない作業にすぎない。
ではどうするか。私も良くわからない。しかし、自分の経験でいえば、私はいくつかの論文を、穴が空くほど読んでみた。
文章も苦手だったし、自分の考えをまとめるのも下手。専門に関する知識だってない。本もそんなに読んでない。自分が才能あふれる天才でないことが明らかである以上、ありもしない奇跡的な未知の潜在力ですごい研究を思いつけるはずもない。自分の経験、自分の能力の範囲で
しか、発想はできないのだから。
そこで、他人の蓄積を利用させてもらうのだ。まず、比較的自分の興味に近い(と思う)論文を何度も何度も読み返してみる。参考文献に示される文献も辿ってみる。どうも気になる著者の文献も辿って読んでみる。それを繰り返していると、徐々にぼんやりと、なぜこの人はこんな論文を書いたのか?ということが理解できてくる(ような気がする)。それを研究室にいる他の人(今から思うと主に先輩だった)に話してみる。最初は訳が分からないと言われるのだが、何度も話していくうちに研究室メンバーは自分の興味、考えをなんとなく理解してくれるようになる。
そうなると、お前の考えは独善的だとか、そんなモンはつまらないだとか、風景の多様性っていうのはどうなんだ?といったような議論が始まる(というか、ただのヒマつぶしのおしゃべりの一部だが)。じゃあ、お前はオギュスタンベルクは読んだことあるの?とか言われると、誰?それ?ということもある。そこで、風土というキーワードを知る。じゃあ、和辻はこう言っているよね。と別のツッコミも入る。自分の読んだ本の冊数はたかが知れているが、何人かの読んだ冊数の経験から、議論できるようになるとさらに幅が広がる。
賑わいって何よっていう議論もなんどもやった。渋谷のセンター街はどうなんだとか、骨董通り、キラー通りは何がいいとか、自由が丘の駅前はああだこうだとか、いろいろと議論が起こる。知らないところや行ったことのないところも出てくるから、そういうところは行ってみる。そうすると、S君の言っていることが何となく理解できるようになる。で、自分の考えもちょっとは整理されてくる。
で、そのあたりまで進んでくると、自分の興味関心の相対化ができるようになってくる。これが論文を書く第一歩だったように思う。
本とか論文は、サラリと読んだだけではその本質を摑むのは難しい。その周辺に潜む地形を理解してこそ、なぜそこにその論文があるのかが見えてくる。分かった気になってはいけない。
場所や風景、都市空間を読み解くというのも同じだろう。キカイが風景を眺めたり、まちを歩いている訳ではない。都市空間に潜むバタフライ・エフェクトを解き明かそうなどと考えてみても徒労に終わる。
ともかく、自分の数少ない経験で、自分の思ったこと、考えたことを「研究室」で話してみる。誰かを捕まえて話してみる。人に話すためには、自分がモヤモヤとアタマのなかで考えていることを言語化・可視化しないといけない。そのプロセスで、自分のアタマも整理される。そして、他人にそのことがウマく伝わらなければ、自分の伝え方が悪いのか、自分の語学力が低いのか、相手の理解力が低いのか、自分の考えが浅はかなのか、何か理由があってそうなっていることに(一応)気づく。で、もう一度、チャレンジしてみる。この試行錯誤を繰り返すと、きっと自分の興味(の一部)が論文になる。
研究は、自分のチカラで書くのではない。研究室で書く。その環境をフルに活かして欲しい。