2010年5月10日月曜日

研究室で誰かの論文、本を穴があくほど読んだことありますか?

学生が論文の構想を考えるスタートシーズン。毎年同じことを言うなあ、と思いながら、自分が学生の時のことを考えてみる。いまの状況は、自分の若かりしころとさして変わらない。
学生の質だとか、学力うんぬんといった類の話は全く的外れ。ホントに自分の学生時代と変わらない。
自分の経験から特に強調しておきたいのは、私は自分のチカラで論文を書いたのではなく、研究室に論文を書かせてもらったと本気で思っている。だから、研究室は大事なのだ。
なぜ、学生は研究室に所属するのかということを根源的に辿ると、それには理由があるはずだ。指導教員と学生との1対1で成立するのが研究であれば、研究室など不要といってもいい。大学の教育システムでは授業がほぼイコール教育カリキュラムとなる。しかし、現実には授業だけでは研究・教育は成り立たない。授業で知識は入るかもしれないが、知恵、作法といったものまで仕入れることは難しい。
最も分かり易い例でいえば、レジュメの書き方、参考文献、図表の作成方法、カメラの撮影の仕方、データ管理の方法、パソコンの使い方といった基本的なことはすべて授業ではない研究室での滞在時間で身につけた。
同じ場所をいろんな人が一緒に歩いたのに、写真がウマい人、良くわからない写真を撮る人、、びっくりするほど写真が下手な人、ブレまくりの写真を撮る人、いろんな人がいる。それを知るだけで、尋ねるだけ、観察するだけで、自分の幅が広がっていく。そんな刺激が研究室にはあった。私は景観の研究室にいたので、写真のウマい先輩は沢山いた。当時博士課程にいた、Nさんの写真はすごかった(が、被写体はくだらないものばかり)。構図を研究しているAさんは、違うものを撮っていても、同じように評価できる材料として写真を評価するにはどういう共通性を持たせばよいかを追求して写真を撮っていた。写真を撮るというのは、様々な目的がある。その目的に応じてやり方を考えないといけないということに気づくことができた。自分がいまそれをマスターしているとは言いがたいのだが、安易にパシャパシャ撮ったってろくでもないものが殆どだということには気づいているつもりだ。
研究の最初の段階では、真理の追求、個人の根源的問題意識が問われる。しかし、そのことを素直に紙にまとめると、博士論文でも解き明かせないような大研究になるし、既往の研究の足跡から辿ることはもはや困難な宙に浮いたポエムのような言葉が並んでしまう。その多くはリアリティのない空想にすぎない(まれに例外もあるのだが、ここではそれは控えよう)。
では、すでにある論文の蓄積のなかから、自分の興味に近いものを選び出し、その延長上で研究テーマを設定してみると、どうだろうか?たしかにそれなりに研究らしい形はできるだろうが、それが知的探求の成果といえるかといえば疑問符がつく。それは問題集を解いているのとさして変わらない作業にすぎない。
ではどうするか。私も良くわからない。しかし、自分の経験でいえば、私はいくつかの論文を、穴が空くほど読んでみた。
文章も苦手だったし、自分の考えをまとめるのも下手。専門に関する知識だってない。本もそんなに読んでない。自分が才能あふれる天才でないことが明らかである以上、ありもしない奇跡的な未知の潜在力ですごい研究を思いつけるはずもない。自分の経験、自分の能力の範囲で
しか、発想はできないのだから。
そこで、他人の蓄積を利用させてもらうのだ。まず、比較的自分の興味に近い(と思う)論文を何度も何度も読み返してみる。参考文献に示される文献も辿ってみる。どうも気になる著者の文献も辿って読んでみる。それを繰り返していると、徐々にぼんやりと、なぜこの人はこんな論文を書いたのか?ということが理解できてくる(ような気がする)。それを研究室にいる他の人(今から思うと主に先輩だった)に話してみる。最初は訳が分からないと言われるのだが、何度も話していくうちに研究室メンバーは自分の興味、考えをなんとなく理解してくれるようになる。
そうなると、お前の考えは独善的だとか、そんなモンはつまらないだとか、風景の多様性っていうのはどうなんだ?といったような議論が始まる(というか、ただのヒマつぶしのおしゃべりの一部だが)。じゃあ、お前はオギュスタンベルクは読んだことあるの?とか言われると、誰?それ?ということもある。そこで、風土というキーワードを知る。じゃあ、和辻はこう言っているよね。と別のツッコミも入る。自分の読んだ本の冊数はたかが知れているが、何人かの読んだ冊数の経験から、議論できるようになるとさらに幅が広がる。
賑わいって何よっていう議論もなんどもやった。渋谷のセンター街はどうなんだとか、骨董通り、キラー通りは何がいいとか、自由が丘の駅前はああだこうだとか、いろいろと議論が起こる。知らないところや行ったことのないところも出てくるから、そういうところは行ってみる。そうすると、S君の言っていることが何となく理解できるようになる。で、自分の考えもちょっとは整理されてくる。
で、そのあたりまで進んでくると、自分の興味関心の相対化ができるようになってくる。これが論文を書く第一歩だったように思う。
本とか論文は、サラリと読んだだけではその本質を摑むのは難しい。その周辺に潜む地形を理解してこそ、なぜそこにその論文があるのかが見えてくる。分かった気になってはいけない。
場所や風景、都市空間を読み解くというのも同じだろう。キカイが風景を眺めたり、まちを歩いている訳ではない。都市空間に潜むバタフライ・エフェクトを解き明かそうなどと考えてみても徒労に終わる。
ともかく、自分の数少ない経験で、自分の思ったこと、考えたことを「研究室」で話してみる。誰かを捕まえて話してみる。人に話すためには、自分がモヤモヤとアタマのなかで考えていることを言語化・可視化しないといけない。そのプロセスで、自分のアタマも整理される。そして、他人にそのことがウマく伝わらなければ、自分の伝え方が悪いのか、自分の語学力が低いのか、相手の理解力が低いのか、自分の考えが浅はかなのか、何か理由があってそうなっていることに(一応)気づく。で、もう一度、チャレンジしてみる。この試行錯誤を繰り返すと、きっと自分の興味(の一部)が論文になる。
研究は、自分のチカラで書くのではない。研究室で書く。その環境をフルに活かして欲しい。

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