確かに論文のオリジナリティという意味で、他にない独創性は重要だ。しかし、他にないということをもって、有用性があるとはいえない。そんな研究は現実的にできないから、あるいはそんな研究には全く意味がないから、他の人が取り組んでいない可能性は十分にある。私が学生時代に恩師から教わったことのなかで、印象深いコトバの一つに「ないということを証明するのはとても難しい」というのがある。確かに「ある」ことを証明するのは簡単だ。一つ事例をあげればよい。しかし、ないことを証明するのは難しい。宇宙に人間以外の生命体はまだ見つかってはいないが、「ない」と証明することが出来る人はいるのだろうか?
同じ問題意識を持ち合わせている人が世の中には必ずいるはずである。(アインシュタインのような天才は別かもしれないが。)
しかし、最近の学生は文章を読めない(読まない)人も多い。だから、他人の意見を吸収するのが苦手だ。他人の考えを理解できないと自己の相対化、客観視ができず、自分の世界のおとぎ話を語るしかないのである。
形式的にレビューはするし、研究の方法も書いてある。しかし、「仏つくって魂入れず」で、あくまで体裁だけの話が多い。考えるチカラを鍛える必要があるのだ。
学生のペーパーでは②はまだなんとなくは分かるが、⑤ができていないというのは何故なのか?何度も同じことを言ってもできない人もいる。
また、研究の方法が具体的ではないのも大いに気になる。自分がやると宣言したことが、一体どれぐらいの時間、日数でできるのかという確証もないということがおかしいとは思わないのだろうか?やりたい事が大きいのは結構ではあるが、論証というプロセスを経て研究を成立させるには、時間の制約、作業量の制約なども十分勘案する必要がある。人間はいくら気合い十分でも1日500キロを走ることは不可能なのだ。平気で1万キロを1日で走りますと宣言してくれるのである。
近年、学生のゼミでの議論がとても心配。互いにディスカッションせよとしきりに言うのは、他人の考えを理解する(相対化、客観視)ことにつながるし、言われたほうも自分の考えを他人にどう伝えるかを自然と考えるようになるからだ。タコツボに入り込んで行き詰まったときにも他の人の意見は有用である。発想の転換ができることもある。みな、自分のなかの世界を大切にしすぎていて、その聖域を荒らして欲しくないという自己愛型不可侵思想が垣間見える。これでは研究の進歩はおぼつかないし、それ以上に社会で生活していけない。社会人になれば、その大半は他人との協同作業なのだ。1人でできることなどたかが知れている。
がんばってくれている学生もいるが、それでもなお発表者の面子や気分を害していないかを過剰に心配し、腫れ物に触るような扱いだ。「そんな研究はつまらん」「問題意識は大いに共感できるが、方法がむちゃくちゃ」「こうしたほうがいいのでは?」といった素朴かつ正直な意見のやり取りができる仲間がとても大切だと思うのだが。
いずれにしても、あと1ヶ月ちょっとで目処を立てなければならない。巻き返しに期待。若者よ。がんばれ。言っている意味が伝わっているのか心配・・・
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